加藤清正の夢~有明海に臨む玉名横島干拓地~

加藤清正の夢~有明海に臨む玉名横島干拓地~加藤清正の夢~有明海に臨む玉名横島干拓地~

シビルNPO連携プラットフォーム 常務理事/事務局長
メトロ設計株式会社 取締役
田中 努

有明海の干拓は、八郎潟の干拓と並んで、小学校か中学校で学びましたが、近年では、諫早湾の干拓堤防と生態系のへの影響で社会問題になったことが、皆さんの記憶に新しいと思います。有明海の干拓は、古くから行われていますが、熊本市の隣の玉名市の干拓地を歩き回って来たので、ご紹介します。

「干拓」は、堤防を作って干潟を締め切り、海水を排水し、川から水を引いて、田畑にする土木事業です。玉名横島の干拓は、戦国時代に加藤清正が始め、その後、江戸・明治・大正と続き、昭和42(1967)年まで拡大されました。玉名横島地区には、江戸時代と明治時代の堤防の一部が残されていています。

写真は私の撮影ですが、情報は下記のホームページに寄るところが大きく、詳しくはそちらを見ていただきたいと思います。

※農林水産省九州農政局ホームページ > 玉名横島地区の干拓

https://www.maff.go.jp/kyusyu/seibibu/kokuei/19/kantaku/index.html

■加藤清正

加藤清正は、豊臣秀吉の母方の親戚筋で、賤ヶ岳(しずがたけ)の戦い・朝鮮出兵・関ヶ原の戦いなどで活躍した武将ですが、熊本城・江戸城・名古屋城など数々の築城に関わったことでも知られています。熊本県内には現在も清正による遺構が熊本市二本木をはじめ多く存在していて、その土木技術は非常に優れており400年以上経った現在も実用として使われている遺構が少なくないと言われます。新田開発や治水工事で実績を上げたためか、熊本では、今でも「清正公さん」と呼ばれて親しまれているそうです。

加藤清正は、秀吉の命で天正16(1588)年に、肥後国の領主として入国しましたが、最初の領地視察で、「高瀬」と「横島山」に挟まれた地域(下図1参照)に目を付け、翌天正17(1589)年に干拓に着手したそうです。この地域は、菊池川の三角州で陸地化が進んでいたようで、「できる!」と思ったのでしょう。私は、神戸の舞子から四国を見たとき、龍飛岬から北海道を見たとき、土木屋なら、「できる!」と思うだろうと感じましたが、その感覚だろうと思います。

■干拓の跡

前ページの図1右の水色部分の大半が、清正の時代の干拓地で、当時は、北東の海岸から南西に向けて新田を作っていきました。この時代の干拓地は、現在の干拓地の半分近くを占めているのですから、清正とそのブレーンの先見性と技術力・マネジメント力は凄いと思います。残念ながら、私の事前勉強が足らず、清正の「東塘・西塘(とも=堤)」の跡は確認することが出来ませんでした。

下の写真1は、江戸時代(安政6年)に完成した「九番堤防」です。上図1右の緑色と黄色の境になります。ここには「横島校区まちづくり委員会」の説明板が設置され、「当時はすべて人力で、1日中この堤防に上ったり下ったり『潟(がた)』を担ぎ上げ、・・その担ぎ手は若い娘たちと主婦であった」と記され、「潟担い節」という口伝の民謡が紹介されています。

写真1:安政6(1859)年に築造された「九番堤防」(背景の山が「横島山」)

上の写真1の堤防の手前は、明治時代の干拓で生まれた新田で、右の写真2のように地盤面は海抜1mだそうです。本号の表紙の写真のような広大な稲田が広がっていて、これらの干拓により、玉名横島地区の収穫量は飛躍的に増大したでしょう。

下の写真3は、明治時代に建設された潮受け堤防で、図1右の黄色とピンクの境になります。明治以降の堤防はコンクリートを用いた頑強なものになったと言われますが、写真の構造では一番上のパラペットのみがコンクリート製で、下の本体部は土盛土に石積みの被覆をしたようです。地盤高は、この堤防の内外で同じレベルになっています。

この明治堤防は、更に海の中に作ったので、台風や高潮で何回も決壊し、多くの死者と損害を出しましたが、昭和42年の横島干拓潮止めによって、堤防決壊の心配が無くなったそうです。

写真2
写真3:明治時代に建設された潮受け堤防(左右は別の場所。右は明治26年に築造された。)