わかり易い土木:第31回
土木と災害対策 第3部
NPO法人 州都広島を実現する会 事務局長
シビルNPO連携プラットフォーム 理事
野村 吉春
- はじめに
前回は、災害に関する「リアルな話題提供を」という要望に応えて、2014年8月20日に発生した、「我が国最大の都市型土砂災害」とも呼ばれる「広島土砂災害」のリアルを書きました。
そこで、今回は後半の部として、土木人であり、また被災地の住民という立場で、災害の発生時点の緊急対応から、現在の復興事業に至る状況について、「①災害に対するこの地域の脆弱性、②私が直ちにとった行動、③地域の若者たちの素晴らしい活動」の3点について報告します。
- 災害に対するこの地域の脆弱性
「広島土砂災害」は、局部的な集中豪雨に伴う「土石流✛浸水被害」です。これまでにも中山間地域での大規模な土石流が発生していますが「人的被害」は比較的小さかった。しかし、今回は人口100万人を超える地方中枢都市を襲った「都市型災害」いう点に着目したい。
●地域特性
「広島土砂災害」は、広島市安佐南区のごく一部である「緑井・八木地区」という、狭いエリヤに災害が集中的に発生したことから、まずこの地区の「地域特性」を考察します。
(* 上図のハザードマップには、今回お話しする多くの地域情報を追加で書き込みました。)
この地域の主な地域特性を下表に示します。
要素 | 主な地域特性 |
地形 | ・広島市の中心から内陸部へ5~10kmに位置する安佐南区は、面積は広いが山ばかり。 ・平地は太田川と支川に沿う幅2~3kmの細長い平地があるのみで、「緑井・八木地区」では権現山と阿武山(標高586m)の山麓部に扇状地を形成している。 |
人口 | ・安佐南区は、広島市の8区の中で現在は最大の人口集積地域で、かつては安佐郡に属していた田舎だが、1970年代に広島市に合併後に急成長した地域である。 |
土地利用 | ・安佐南区の狭い平地には、大型の商業施設や郊外型の店舗が立地し、マンションが多数立地。また山麓部は大規模な宅地開発がなされ、大学が5校も立地している。 ・今回の被災地「緑井・八木地区」では山麓部への「宅地のミニ開発」が進行した。 |
ハザードマップ | ・「緑井・八木地区」の山麓部は全て「土砂災害警戒区域」であり、また平地部のほとんどが「浸水警戒区域」に指定され、かつて太田川が何度も流路を変えた歴史を持つ。 ・「安心して住める区域は何処にもない」という危機感が必要である。 |
交通網 | ・安佐南区は広島市北部の交通の要衝であり、軌道系はJR可部線とアストラムラインが通じ、道路網は山陽道広島IC、山陰地域に至る国道54号と交通の要衝の地。 ・「緑井・八木地区」に関しては、国道54号から山麓部の住宅地に至る道路は幅員2~3mの非常に狭い道路で、2車線を有するアクセス道路は皆無と言ってよい。 |
●発災時の人命救助・救援活動
「広島土砂災害」の降雨は深夜の2~4時の3時間に集中した。広島市内の8区の消防署から、早朝にはほぼ全消防車や救急車が被災地に集合し、人命救助や救援活動を開始した。また広島県警や県内の自衛隊もいち早く参加し、午後には近県や日本全国から多数の応援部隊が駆け付けるに至っている。ここでの私の気付きを5点ほど列記します。
①迅速な対応を目の当たりに、「日本国民は素晴らしい」と思った。
②緑井の山陽道広島IC(=広島の玄関)、そこから被災地は至近距離で、6車線の国道54号が緊急車両の臨時駐車場の役割を果たした。
③問題は、国道54号から被災地に通じる道路幅が2~3mと狭く、土石流の堆積物と腰まである泥濘に足腰を奪われ、進入に1時間を要するなど、人命の救出に困難を極めた。
④私の自宅は、国道から800m入ったところだが、被災地で唯一2車線の幅員があり、緊急車両が縦列駐車し、凡そ10日間、昼夜にわたって行方不明者の捜索活動を展開した。夜間も煌々とした照明、無線の交信、寝泊り、3度の食事・・・私は関係者への畏敬の念を抱いた。
⑤複数の小学校が避難所となり、「災害派遣・精神医療チーム(DPAT)」がいち早く対応した点も、災害大国ならではの支援体制を知る機会となった。
●被害状況
関係者の昼夜を徹した懸命な努力にもかかわらず、右表の被害を発生したことは痛恨の極みである。
●災害に対する脆弱性
土木人は安易に「想定外」だと語ってはならないが、私がこの地域に住んで40年、「土石流✛浸水被害」への危機感を欠いていた。 家屋の損壊が430棟はいずれも山麓部の扇状地へのミニ開発による災害であった。また我が家を含む浸水家屋4129棟は、平地部にあっては常にある浸水被害のリスクを知った。
狭いエリヤに死者を77人も出したことは、緊急時の避難路が不備であったこと。人命救助隊が被災地に入るのに徒歩でしか到着できなかった・・・という「道路網の脆弱性」が浮き彫りとなった。
■私が直ちにとった行動
この喫緊の事態に、不治の病でベットに伏している身ながら、「土木人のお前には何が出来るのか?」と自らに問いかけ、被災地を熟知する私は、被災の3日後には、「復興モデルプラン(右図のA2サイス*2枚)」を描いて、広島市議会の議長室に(縁故を通じて)掲げて頂きました。復興モデルプランには、「広島市の都市力の向上」そして、被災地を南北に縦貫する未着手の都市計画道路である「長束八木線」について、「今やらないで何時やるのか!」と、私からの強いネッセージを付しました。
議長室に出入りする市の幹部や市議達やマスコミの注目を得たことは言うまでも有りません。
実は、この日の行動は、私が若い時に学んだ、伊豆大島の大規模火災の直後にいち早く「復興計画」を提案した「吉坂隆正」(当時、早稲田大学建築学科)から学んだ実践でした。
建築家の吉坂隆正は、いまから遡ること1965年に、船で伊豆大島の元町港に到着すると、しばらく港に立って、島全体や集落を眺め・・・、今でも、語り草になっている「直観力」でもって、元町地区の街づくりをスケッチし、「一晩で復興計画を作成した」という講演を聞きました。
私のように、全国をどさ周りして地域のコンサルティングをやってきた人間には、最小限の情報と観察眼で地域の課題を直感的に見抜く能力。その上で当面の打開策なり、地域づくりのモデル案を直ちに提言できる能力が必須。師いわく、そもそも「直観力の無い人間には、たいした仕事はできない!」という教えに、私は「強いショック」を受け、50年後の今もひたすら研鑽に努めています。
■若者たちの素晴らしい活動
「広島土砂災害」には毎日2000~3000人のボランティアが駆け付け、福祉センターの窓口では、現地への手配に1~2時間も手間取り、参加を断られた人たちが1000人も発生するなど不満や混乱も見られた。元々、安佐南区には5つも大学があり、市内8区の中でも断トツで若者が多く、彼らの大半が災害支援のボランティア活動に向かったと話していた。
私の長男は東京で「都市開発」の仕事をやっているが、今後の勉強のために、1週間ほど帰省して「災害ボランティア」を勧めたら、すぐに帰省して数日間の泥かきなどを体験した。
当初は、JR可部線が土石流で埋まり、広島駅~緑井駅間での折り返し運行になったため、終点の緑井駅から被災地に向かう若者たちが、長靴、手袋、スコップを手に長打の列をなして、毎日私の家の前を通るのを見ているうちに、「この国の未来は明るい!」との勇気を与えられた。
- いま現在の復興状況
主な工事内容は、106基の「砂防ダム」が完成。約200戸の家屋移転を伴いつつ、「長束八木線(5工区)と川の内線」が工事中。地下にはφ5.25mの「雨水貯留槽」が完成といった現況です。