お城における土木の話(2)

お城における土木の話(2)お城における土木の話(2)

お城における土木の話(2)

アジア航測株式会社事業推進本部
社会インフラマネジメント事業部
大友 正晴

今回は、前回の縄張り(山城)の続きで、平山城、平城における縄張りについてお話したいと思います。

縄張り(配置形式)について

前回の山城の縄張りでは、曲輪の話をしました。曲輪には、本丸や二の丸、三の丸と呼ばれたり、山里曲輪とか帯曲輪とか〇〇曲輪と呼ばれるものなどがあります。もちろん、本丸は天守やお殿様の住んでいる御殿など城の中心となる曲輪のことです。

これらの郭(曲輪)の配置には、以下の配置形式があると言われています。

これらの配置は縄張りの基本的なもので、地形その他の事情によりこれらを複合した配置や変形した配置などもあります。当然、鉄砲・大砲に代表される武器の発達や築城上の進化を反映して縄張りも変化します。

惣構え(総構え、総曲輪、総郭とも言います)

日本の城は、統治者の居館を中心にした城や防衛のために最小限の施設のみで構成された城などがほとんどです。そして城の周囲には城下町が造られましたが、敵が攻めてきた際には、城下町の住居は焼き払われてしまうことが度々でした。しかし、日本にもヨーロッパの城のように街全体を防御施設(土塁や石垣など)で囲んだ城もありました。このような城のつくりを惣構えと言います。

惣構えで良く知られているのが小田原城です。後北条氏が整備した小田原城は、上杉謙信や武田信玄が攻めてきた時にも耐え、豊臣秀吉の小田原攻めでも戦闘では落城していませんでした。この時は、調略などによる家臣の裏切りなどで降服したので攻められて落とされてはいません。小田原城の縄張りの総延長は約9㎞、面積で約3.2㎢の広さがありました。

大阪城(総延長約8㎞、面積約4㎢)や江戸城(総延長約15㎞、面積約17.1㎢)も惣構えが構築されていました。どちらも、現在の街が巨大なので分かりにくいのですが、秀吉や徳川家は街ぐるみで守る惣構えを整備していました。大阪城の惣構えも大阪冬の陣では落城しませんでした。夏の陣では、冬の陣の後で堀が埋められてしまうなど防御機能が著しく低下したために落城してしまいました。江戸城は攻められたことはありませんが、きっと攻め落とされることは無かったと思われます。つまり、惣構えは、当時としては難攻不落の大城郭だったことが分かります。

これら代表的な惣構えを持つ城以外でも、有岡城、姫路城、大和郡山城、岡山城、広島城、彦根城、福岡城、大分城、小倉上、桑名城、長浜城、岐阜城、清須城、金沢城、犬山城、伏見城、水戸城、福山城、萩城、明石城、館林城、盛岡城、岸和田城、久保田城、米沢城、松江城、高知城などで惣構えが整備されていたようです。

実は、京都にもありました。豊臣秀吉が築造した御土居がそうです。御土居は、堀を掘削してその掘削した土を土塁としたもので(御土居の構造:下図参照)、東西約3.4km、南北約8.5kmの範囲を総延長22.5kmの土塁と堀で二条城や御所を中心にした街を囲んでいたそうです(右図参照)。今ではほとんど跡も見られないようですが、北野天満宮など数カ所の御土居が残っているそうです。御土居は敵からの侵入を防ぐとともに鴨川などの氾濫にも備えたものだったそうです。

京都市HPより

信州上田で真田昌幸が構築した上田城は、二度の徳川の大軍に攻められました。二度とも撃退出来ましたが、惣構えが無いがために城下は戦場となり町家は焼かれたり壊されてしまいました。

次回からは、お城を構成するパーツに関してお話します。