ヨハネス・デ・レーケと田辺義三郎
シビルNPO連携プラットフォーム 常務理事/事務局長
土木学会/土木広報センター/インフラパートナーグループ 幹事長
(メトロ設計(株) 取締役)
田中 努

■はじめに
表紙の「オランダ堰堤」は、WEBライターの雲林院ゆみさんが、「土木遺産の女」として、滋賀のあちこちを取材してWEBサイトで発信しているものの1つです。これまでも、CNCP通信の表紙の原稿が間に合わないと、急所、材料を提供していただいて、間に合わせてきました。(笑)
今回お話しするのは、そうする中で、滋賀のあちこちで出てくる「デ・レーケ」って何者? そして「田辺義三郎」って琵琶湖疏水の田辺朔郎(第17代土木学会会長)の親戚?・・というミーハー的な疑問で、少し調べてみました。浅学故に深入りすると間違えるので、詳しくは皆様で調べてみてください。
■ヨハネス・デ・レーケ(1842~1913:没年71歳)
表紙の「オランダ堰堤」の建設を指導したオランダ人技術者です。
明治政府(内務省土木局)は、欧米の技術者(計約130人)を招き、その指導の下に最新のインフラ整備と技術の獲得と人材育成を進めました。イギリス人60人+アメリカ人40人+オランダ人10人強+αのようです。イギリスは煉瓦や鉄の技術に長けていましたが、水工は弱かったらしく、水深の浅い大阪港に外国の蒸気船を入れて水運を拡大させたい政府は、オランダから治水と築港の経験のある技術者ファン・ドールンを月給300万円(現在価値で)の高額で招いたそうです。デ・レーケは、ファン・ドールンが選んだ技師団の1人でした。

ヨハネ・デ・レーケの銅像
オランダは、国土の1/4が海抜ゼロメートル未満なので、築堤と風車による排水が不可欠な国で、デ・レーケの父は臨海土木工事業者だったそうです。デ・レーケは向学心に富む子供だったようで、堤防工事の監督に来ていたレブレットと出会い、可愛がられ、数学・力学・水理学などを教わったそうです。このレブレットは、後に王立アカデミーの教授になって、前述のファン・ドールンや技師団に加わったエッシャー(だまし絵のマウリッツ・エッシャーの父親)らに水理学を教えることになり、その後、運河工事で監督をしていたデ・レーケ本人と出会っての技師団入りのようです。
デ・レーケの来日は明治6(1873)年31歳の時で、明治36(1903)年に帰国し、その後、オランダ政府の代表として中国の事業にも参画したそうですが、1913年に亡くなりました。在日中に奥さんと息子さんを病気で亡くし、社会人人生の30年間を、日本の河川改修に取り組んだ技術者です。在任中に2度受勲され、最後は、内務大臣の技術顧問となり、帰国に際してさらに勲⼆等瑞宝章を授与されています。
デ・レーケは、まず、大阪湾に流れ込む淀川改修計画に参加しました。流れを中央に集めたり、下流で分流していた流れを1本に集めるなど、堆積する土砂を流す方法を考案しています。その後、木曽三川(木曽・長良・揖斐)の改修計画を担当しました。デ・レーケは、当時多発していた水害の原因は、諸川の流出する土砂の堆積であると指摘し、それは流域における樹木の伐採によって引き起こされているとして、「治山治水の思想」を解き、「近代砂防の祖」と呼ばれています。
大阪築港、四日市築港、細島築港の他、表紙の「オランダ堰堤」や「不動川堰堤群」など公園になっているところもありますが、群馬県・長野県・岐阜県・愛知県・三重県・滋賀県・京都府・徳島県・長崎県にも、デ・レーケが関わった大小の砂防施設が残っているそうです。

■田辺義三郎(1858~1889:没年31歳)
田辺義三郎に関する資料は、浅学の私には見つからず、下記の参考資料の末尾のSABO/歴史探究「石積み堰堤を追いかけて(上下)友松靖夫」から学んだことがほとんどです。「オランダ堰堤」「鎧堰堤」やその周辺技術や歴史について詳しく調べられているので、是非、一読をおすすめします。
田辺義三郎は、後に、前述のファン・ドールンの指導で猪苗代湖疎水を設計した山田寅吉らが欧米留学したとほぼ同時期にドイツに留学(1873~1881年)し、帰国後内務省に入りました。入省後5年で、第5区土木監督署(徳島)巡視長(土木監督署巡視長は、今の国土交通省地方整備局長に相当するようです)に就き、翌年、第4区土木監督署(大阪)巡視長兼務になり、明治時代を支えた英才たちの1人と言われています。田辺義三郎の最後の職は、さらに第1区土木監督署(東京)巡視長も兼務したそうで、相当、スーパーで頑張っていた方ですが、若くして亡くなり、大変残念です。
デ・レーケたちは、フランス式工法を基に、日本に合う砂防堰堤として、16工種の「防砂工略図解」をまとめていますが、デ・レーケの指導で、田辺義三郎が設計したのは、表紙の「オランダ堰堤」とCNCP通信VOL.123/2024.7.5掲載の「鎧堰堤」のみで、この形式は、他に建設されていないそうです。田辺義三郎がドイツで最新の「欧州アルプス砂防」を学び、デ・レーケと相談しながら取り組んでみた・・と想像します。先に紹介した友松氏の調査では、「鎧堰堤」に積まれた切石は302個で、その前に建設された「オランダ堰堤」の積み方では458個必要となるので、35%も工事費が削減されているとしています。しかし、田辺義三郎は、同じ直方体に成型した切石を多量に使うこの方法は合理的でないと判断して、以後使わなかったのかも知れません。
一方、琵琶湖疎水は京都府の事業で、工部大学校を卒業したばかりの青年技師 田辺朔郎(当時21歳)が工事の主任技師を務めたことは有名で、延長11km超の第一隧道は当時日本最長です。この琵琶湖疎水に、内務省は調査官として田辺義三郎とデ・レーケを派遣していました。第二隧道の工費増額と湖面の水位低下を抑制する堰の建設を要求したそうです。
田辺朔郎はトンネル屋で、田辺義三郎は河川・砂防屋でした。二人の英才は、どんなやりとりをしたのか、残っていたら、是非知りたいものです。
■参考資料
・偉人たちの歴史街道/明治政府に招聘されたオランダ人土木技師「ヨハネス・デ・レーケの偉業」/近畿地方整備局淀川河川事務所
・再発見!琵琶湖・淀川水辺の遺産/オランダ堰堤に行こう。【大津市上田桐生】(水のめぐみ館アクア琵琶)/ビワズ通信No.42/2004年/夏号/https://www.kkr.mlit.go.jp/biwako/aquabiwa/biwazu/42/index.html
・関西の公共事業・土木遺産探訪(坂下泰幸氏運営)/No.29不動川砂防堰堤(デ・レーケ堰堤)-今も人々の記憶に残る明治の外国人技術者の貢献/http://ksdobokuisan.stars.ne.jp/
・KDS:カンサイドボクスタイル(一般財団法人阪神高速先進技術研究所運営)STUDY/2021.5.14/土木遺産⑬今も記憶に残る外国人技術者の貢献(2)-不動川砂防施設(デ・レーケ堰堤)
https://kansai-doboku-style.com/post-689/
・幕末~明治期の我が国における山地荒廃の原因と利根川並びに信濃川流域で明治期に施工された砂防工事/平成28年12月(一財)砂防フロンティア整備推進機構砂防フロンティア研究所長森俊勇
・ちょっと寄り道「近場の土木遺産めぐり」~京滋編~/土木学会選奨土木遺産関西支部推薦委員会
http://www.jscekc.civilnet.or.jp/isan/p2006.pdf
・滋賀森林管理署/森林と親しもう/人と森林の歴史「オランダ堰堤」/近畿中国森林管理局
https://www.rinya.maff.go.jp/kinki/siga/mori-enjoy/oranda_.html
・木曽三川で学ぶ/木曽三川の歴史/木曽三川治水偉人伝15:ヨハニス・デ・レイケ(日本の近代砂防の祖)/国土交通省中部地方整備局木曽川下流河川事務所/https://www.cbr.mlit.go.jp/kisokaryu/gakusyu/ijin/15.html
・SABO vol.79 Jul.2004歴史探究「石積み堰堤を追いかけて(上)友松靖夫」
・SABO vol.80 Oct.2004歴史探究「石積み堰堤を追いかけて(下)友松靖夫」