つなぐ活動 通水100周年の大河津分水(その①)

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通水100周年の大河津分水(その①)

信濃川大河津資料館コーディネーター
樋口 勲

■3年に1度の水害 

信濃川や阿賀野川が運ぶ土砂の堆積によって形成された越後平野。海岸部に標高20m程の新潟砂丘と標高600m程の弥彦山塊が連なり、平野の中央を縦貫する信濃川、中ノ口川、西川が決壊すると、氾濫水は逃げ場を失い数か月にもわたって湛水しました。そのため、越後平野には腰まで水に浸かりながら稲刈りをしなければならない泥深い“深田”が広がり、米どころとは程遠い光景が広がっていました。日本一の年間流出量を誇る信濃川の治水は容易ではなく、また、信濃川沿川の統治者が小藩に分割されており、統一的な治水が行えなかったことも水害頻発の大きな要因となっていました。

■170人の請願者と流域連携

そのような中で享保年間(1730年頃)には大河津分水の必要性を訴える地域住民が出現します。その後も地域や年代の垣根を越え、繰り返し大河津分水が請願されていきます。その請願者の数は170人にのぼり、明治初頭には大河津分水建設が大きな潮流となっていきます。明治政府は測量を実施し、官費を拠出して明治3(1870)年に大河津分水工事に着手しましたが、大型機械もコンクリートも無い時代。工事規模に土木技術が追いつかず5年後に大河津分水工事は中止となってしまいました。

それでも越後平野の人々は故郷を諦めませんでした。大河津分水の請願運動はさらに広がり、中央の政治家や資産家、地域の地主階級、そして土木技術者の心を動かし、大河津分水を実現するという共通の目標に向かって人々が団結していくのでした。

越後平野の標高図と放水路群。湛水排除のための放水路は18本あり、その代表格が大河津分水路。
(国土地理院標高データをカシミール3Dを使用し加工)

■最先端の技術+延べ1000万人の労力

明治40(1907)年に着工し、2年後に内務大臣を招いての起工式を行い本格的に大河津分水工事がスタートしました。掘削延長約10km、掘削土量2,880万㎥、水量調節のための洗堰、自在堰、固定堰といった3つの堰の建設、総事業費約2500万円(当時の新潟県予算に匹敵)の国家プロジェクト。

工事は決して順調には進みませんでした。着工から4年後に堰の建設位置を500m程移動するという大きな計画変更、3度の地すべりによる掘削した分水路の閉塞、大型機械の暴発による事故や風土病のツツガムシ病の流行。追い打ちをかけるように資機材の高騰が重なり予算執行にも悪影響を及ぼす有様でした。このような状況に奮起したのが土木技術者と地域住民でした。「大河津分水が近代土木の出発点」「大河津分水が水害根絶の原点」とそれぞれに想いを強く持ち、それは相乗効果となり工事を推進していきました。

明治40年の帝国議会承認当初の大河津分水計画平面図(堰の位置・名称、堤防計画線はわかりやすいように追記)。図面右側から流れてくる信濃川が大きくカーブする地点から直線的に大河津分水路を掘削した。
岩盤掘削機械としてイギリスから輸入された
スチームナビー
斜面を削りながら移動していく
ドイツ製のエキスカベーター
2000台が使用された
人力の土運車トロッコ、通称“鍋トロ”

そして大正11(1922)年8月25日に大河津分水は通水しました。竣工式で工事の最高責任者であった内務省新潟土木出張所長の渡辺六郎は次のように挨拶しています。「私が最も感謝をしているのは工事で働いてくれた人々が極めて柔順でよく働いてくれたことだ。1回も喧嘩や口論や殺傷事件がなかった。冬季も休まずに働いてくれたことは工事の竣工に大きく貢献した。」大河津分水工事に従事した延べ1000万人の人々。その約8割は水害に苦しまされてきた越後平野の住民でした。

■通水100周年のロゴマーク

令和4(2022)年8月25日で大河津分水は通水100周年です。講演会や見学会など様々な機会を通じて大河津分水通水100周年を盛り上げるべく、地域の皆さんの投票で決定したロゴマークを制作しました。缶バッジやシール、堰カードなどロゴマークをあしらったグッズが多数ありますので、ぜひご利用いただければ幸いです。

イベント情報やお問い合わせは大河津分水通水100周年HPをご覧ください!

https://www.hrr.mlit.go.jp/shinano/ohkouzu100th/ohkouzu100th.html

ロゴマークは、100年前に大河津分水通水を記念して植えられた桜をモチーフに、大河津分水によって私達の安全な暮らしが100年先も続いていくようにとの意味からゼロを突き抜けて大河津分水が流れ、歴史ある分水の雰囲気や通水にかけた人々の熱い想いや努力を赤色で表現しています。