つなぐ活動 通水100周年の大河津分水(その②)

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通水100周年の大河津分水(その②)

信濃川大河津資料館 コーディネーター
樋口 勲

■5年で陥没した自在堰と4年で造った可動堰 

大河津分水通水から5年後の昭和2(1927)年、日本の土木技術の未来を脅かす大事故、自在堰の陥没が起こりました。大河津分水は水量調節機能を失い、上流からの流水は全て大河津分水路へと流れ信濃川の下流域は枯渇。農地に引水できないだけでなく海水が信濃川を遡上し、水道から塩水が出るなど生活に大きな支障をきたしました。自在堰に代わる可動堰の建設と分水路全体の洗掘対策を施す補修工事に着手することとなり、その指揮を任されたのが宮本武之輔と青山士でした。

補修工事は一刻も早く堅牢な堰と分水路全体の洗掘対策を施すことに加えて、堰の陥没という前代未聞の大事故に対する地域からの批判やクレームを受け止めながら内務省の信頼を回復するという、複雑かつ困難な課題に直面していました。

現場を指揮する宮本武之輔は上司である青山士のサポートも受けながら、工事動画の上映会を開催し進捗状況を説明したり、可動堰模型を作成し基礎部分に強固な鉄筋・鉄骨コンクリートを用いることを紹介したり、地域のメディアを通じて工事状況を積極的に発信したり、地域の祭事に自ら加わり盛り上げ役を担ったりと、地域に対してのアカウンタビリティとコミュニケーションを率先しました。地域の人々の工事への態度は徐々に変わり、中には、宮本武之輔や青山士の名前を子や孫にいただく住民も現れました。

基礎の洗掘により堰柱部分が傾いた自在堰。
 

この補修工事の完成を記念して青山士が遺した言葉が「萬象ニ天意ヲ覚ル者ハ幸ナリ 人類ノ為メ國ノ為メ」です。この言葉が刻まれた場所、デザイン、歴史的背景にそれぞれ意味があり、込められた想いやメッセージは私達が考える以上に深いものかもしれません。そして、この記念碑の脇には従業員が資金を出し合い建立された従業員一同碑があり「吾等と吾等の僚友が払いし労苦と犠牲とを永遠に記念せんがために」と刻まれています。この碑文に似た言葉が、荒川知水資料館の玄関付近に建立されている荒川放水路完成記念碑にも刻まれています。荒川でタッグを組んでいた青山と宮本。「仲間と共に地域の為に」という彼らの信条は新潟でも受け継がれ、困難な補修工事を完成に導くことができたのかもしれません。

左が大河津分水、右が荒川にある石碑。年号が皇紀で記載されていること、縁取りのデザインなども似ている。
なお、大河津分水にある石碑文面の背景には絵柄が描かれているのでぜひ現地で確認いただきたい。

■2つの堰の改築と令和の大改修

補修工事後も、昭和30年代には洗堰・可動堰の嵩上げ、平成2年には大河津分水路河口部への減勢工“バッフルピア”の建設、平成12年には2代目の洗堰が、平成23年には3代目の可動堰がそれぞれ通水し、大河津分水の機能の維持が図られてきたほか、平成27年からは、大河津分水路河口部の拡幅工事が行われています。

大河津分水路は上流の分派点付近の川幅が約720mであるのに対して河口付近は川幅約180mと狭く、この川幅を280mまで拡げるとともに、川底の洗堀を防ぐ第二床固の新築(補修工事の際に建設)、河口付近に架かる野積橋の架け替えなどを行うことで、より安全により多くの洪水を流し、これまで以上に地域の生活を支えることができるようになります。「令和の大改修」と名付けられたこの工事を間近で見学できる施設「にとこみえ~る館」が設置されているほか、工事現場を俯瞰できる展望スペースもあり、100年前の工事では成し遂げられなかった大河津分水路河口部の拡幅を現在進行形でご覧いただくことができます。

嵩上げ中の洗堰。

 

左:大河津分水路分派部の空撮写真。中:令和の大改修の概要。右:工事現場を俯瞰できる展望スペースで、「にとこみえ~る館」に駐車し、50段の階段を上り、215m(にとこ)歩くと目の前に工事現場が広がる。たどり着くまでに体力が必要なことから「現場チャレンジコース」と名付けられている。見学時には「にとこみえ~る館」で受付が必要。

■通水100周年の大河津分水が背負うもの

令和4(2022)年8月25日に大河津分水は通水100周年を迎えました。大河津分水の恩恵は計り知れず、通水前は信濃川下流域の信濃川、中ノ口川、西川の堤防決壊は3年に1度の頻度であったものが、通水後はゼロ回となり、かつての水害常襲地帯は日本を代表する米どころとなっただけでなく、その美田を縦貫するように北陸自動車道や上越新幹線が整備され新潟の流通を支え、県都新潟市では信濃川の川幅を狭め、埋め立てた場所に新潟県庁や万代シティなどがあり、新潟県を代表する官公庁街、商業地が形成されています。

多くの恩恵をもたらした大河津分水は、先人達の弛まぬ努力と故郷を諦めない心の上に実現したわけですが、100年の歳月は大河津分水を空気のような存在にまで高め、水害が起きないことが当たり前となり、信濃川の大河津観測所で観測史上最高水位を記録し、大河津分水路から溢水の危険性が高まった令和元年出水を知らない人々がたくさんいるような状況も同時につくり出しました。

大河津分水通水までの100年を学び、通水後の100年を振り返ることは、川との向き合い方、その川が造り上げてきた故郷のこれからの100年を考える上で、そして、その世界や未来を支えている土木技術を見つめ直す上で非常に意義深いものがあります。100周年を迎えた大河津分水が背負うものは、その恩恵以上に計り知れないものかもしれません。